東金市と万葉歌人

山辺赤人(やまべのあかひと)

雄蛇ケ池に近い田んぼの真ん中に、万葉歌人として有名な山辺赤人の墓と伝えられる「赤人塚」があります。
藤原定家とともに「新古今和歌集」の編纂にあたった飛鳥井雅経を祖とする飛鳥井家の古文書『古今抄』に「赤人は上総国山辺郡の人なり」と書かれていることから、赤人がこの地の出身者であるとする説は昔から根強くあったようで、有名な「田子の浦ゆ打ち出でてみれば真白にぞ…」という歌を、内房の勝山港(旧鋸南町)の田子の浦から見た富士を詠んだものとする研究者もいます。

市の指定文化財になっている赤人像は、桧の一木から彫ったもので、作者は不明ですが、文化年間(1804~1818)頃の作と推定されています(法光寺蔵・非公開)。

田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
(田子の浦を通って視界が開けたところまで出てみると、富士山の高い ところには真っ白い雪が積もっていた)

※新古今和歌集では「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」という風に違った形になっています。
この場合(田子の浦に出て見渡せば、真っ白な富士の峰に雪が降り続いている)という風な訳となり響きや意味も違ってきます。

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防人の歌

「万葉集」は大伴家持が撰者といわれますが、家持が上総国の国守に任ぜられ、防人(さきもり)派遣に携わっていたそうです。その関係から、この地の出身者の「防人の歌」が二つ万葉集に収められています。 山辺郡の物部乎刀良(もののべのをとら)と武射郡の丈部山代(はせつかべのやましろ)の二人の歌で、防人として九州に赴くときに詠んだものと伝えられます。

―物部乎刀良―
我が母の袖もち撫でて我が故(から)に泣きし心を忘らえぬかも

(私の母が私の袖をなでて別れをおしんで泣いたあの時のことが忘れられない)

―丈部山代―
外にのみ見てや渡らも難波潟雲居に見ゆる島ならなくに

(名高い難波潟も、遠くから見るだけで九州に渡ってゆくのであろうか、大変遠い島ではないのに)

以上が東金と万葉歌人のお話でした。機会があれば是非、訪れていただけたらと思います。

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